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UPDATE:2016.6.14

まんが表現学科の先生が勧める「呪い」の作品をご紹介!

本日はまんが表現学科主任、川中利満先生より「大学に入る前に見ていて欲しいオススメの作品」をご紹介いただきます!

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若い時に読んだり観たりした作品というのはある種「呪い」のようなもので、その後の一生を(特にクリエイターや志望者なら尚更)定義していくことになります。
僕自身はこの大学で「資料講読」という手塚治虫以降の漫画やアニメの通史を教えていますが、このブログではあえて「通史」から外れる個人的な「呪い」の作品を紹介してみようと思います。
ただ漫画に関して言うと数がありすぎて1本を選ぶのが難しいので、ここではアニメの「呪い」の1本を挙げることにしましょう。
アニメでは富野由悠季監督の劇場版「伝説巨神イデオン発動編」で決まりです。

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「伝説巨神イデオン」「機動戦士ガンダム」の生みの親であり、「ザンボット3」など多くの傑作を生み出した富野監督の1980年のテレビアニメ作品です。元々はゴールデンタイムの子供向けロボットアニメとして放送されていたのですが、人気が出ずに打ち切りにあいます。
スポンサーのおもちゃメーカーは当時の常として「イデオン」を子供用玩具として開発し、その宣伝番組として作品製作をアニメ会社(サンライズ)に依頼したのですが、当時の富野監督は「ガンダム」での青少年向きドラマの手応えを感じていたことで、本編は玩具展開そっちのけの超ハードな人間ドラマとなりました。当然商品はターゲットである子供たちにはさっぱり売れず番組は打ち切り、スポンサーはその後倒産の憂き目に会います。
「イデオン発動編」はその打ち切られた最終4話分の構想を元に劇場作品として新たに作り直したものです(ちなみに劇場で同時公開された「イデオン接触編」という作品もありますが、こちらは発動編に至るまでの物語をテレビアニメから再編集したものです)。

この作品、一言で言って「非道い」です。
テレビアニメの放映中に様々なエピソードを使って膨らませた劇中の「キャラクター」、つまり視聴者の感情移入に成功した登場人物を一片のためらいもなく次々に殺していきます。その殺戮の刃は戦闘ロボット=イデオンに搭乗する「戦士」に留まらず、たまたま仲間となった「少女」や「幼児」まで標的となります。アクションシーンが始まると瞬きする間に少女の頭が画面を飛んでいくのです。油断もスキもあったもんじゃありません。
ここには「理想」や「正しい認識」を持ったキャラクターが生き残る、という道徳的に正しい展開は存在しません。ただただキャラクターたちが感情に流され、憎しみあい殺しあう地獄絵図が繰り広げられるのです。
しかし、この作品が僕を含めた多くのアニメやまんがの業界人を魅了したのは、ただ単に作品が残酷なせいだったからではありません。
アニメやまんがが「何」を出来るのか、を一つの極北として示したからです。
当たり前ですが、アニメやまんがは「二次元」のもので、実在しているものではありません。また、どちらも文化としては後発の文化で、その分かりやすさから「子供」を対象にしてきた歴史があります。異なる言い方をするならば、アニメやまんがは「子供」のためのメディアで、大人は見る価値がないものとかつては位置付けられていました。
それに対するカウンターが、日本のまんがでは60年代から「劇画」や「ガロ」掲載作品から始まり、70年代には「少年まんが」「少女まんが」へと広まり、70年代末にはついに当時「テレビまんが」と言われていた「アニメ」まで至ったのです。

では、「何」がその時問われていたのでしょうか。
それは一言で言えば象徴化された「現実」でした。「死」と「性」と「不条理」、いずれも「現実」を語る際に避けられないものです。
「死」も「性」も「現実の不条理」も、先行するメディアである映画では、すでに実現されていました。特に60年代には映画の都ハリウッドでは残酷な描写や性的倫理を問う「自主規制」の協定が取り払われたことで、その後ニューシネマと呼ばれる「現実」の不条理や残酷性を描く乾いた作品群が一世を風靡していました。
それまでエンタテインメントの主流派だった「青少年向き教養小説(ビルドゥングス・ロマン)」の中ではオミットされていたこれらの要素が、時代の変化と共に表舞台に躍り出ていたのです。
「ビルドゥングス・ロマン」の中では「理想』が語られます。自分と戦い、正しい道を選ぶこと。社会の厳しさにくじけず、たくましく生きていくこと。あるいは「悪」と戦い、「正義」の道を貫くこと。これらの理想は、これから社会に出る子供たちや青少年が『現実』と戦うためのスローガンとして設定されていました。

ただ50年代から60年代にかけて「テレビ」という魔法の箱が一般大衆の家庭の中に入り込むと、様相が変化していきます。最大のきっかけを作ったのはコンテンツとしてのニュース報道でした。ニュースは良い『現実』も悪い『現実』も大量の情報として伝えていきます。大量の『現実』の情報の前に理想は居場所を失っていきます。そして、あらゆる情報の中でも特に衝撃を視聴者に与えたのは、戦争でした。1955年、ベトナム戦争の幕が切って落とされます。
現在のニュース報道はプライバシーやコンプライアンスの問題があって、残酷なシーンをあらかじめ視聴者は見ることができません。ただ、当時は違いました。特にテレビメディアの長所である速報性を売り出すためにニュースではライブ映像が多用されました。当然、ベトナム戦争にもライブは持ち込まれます。
そこに映し出されたものは『現実』の残酷さでした。死、恐怖、不条理、理想の形骸化。
テレビカメラの前でライブで人が死んでいきました。
この衝撃が時代、そして文化を変えていきます。
時代を動かした政治運動については本編の範疇ではないので省略しますが、以降文化面においても『現実』と『理想』はせめぎ合いを続けていきます。
「死」「性」「不条理」、これらから人は本質的には逃れることができません。
もちろん「子供」に供するには不適切なこれらの概念を、「子供」向きと定義されていたテレビアニメで表現していくことが果たして本当に適切であったのかは一考を要す必要があるでしょう。ただ、メディアの拡大とそれに応じた表現として、これらの概念は現実社会を生きていく上で見逃せなくなってしまったのも事実でしょう。
そして、その最先端を走っていたのが70年代の富野由悠季監督だったと言っていいでしょう。
特に「イデオン」は、その象徴的作品です。
枠組みとしては「ロボット」という荒唐無稽な存在を中心に据えた子供向けアニメでありながら、現実に対する強烈なメッセージ性を備え、かつエンタテインメントであること。このほとんど不可能としか思えない無茶苦茶な条件を、この時期の富野監督は見事にクリアしています。
まんがやアニメ、それまで劣位と考えられていた子供向けの表現に、否応ない『現実』を時代性として持ち込んだがゆえに、「イデオン」は若いクリエイター志望者や先鋭的ファンの支持を得ることに成功したのでした。

もっとも、小難しいことを考えながらこの作品を見る必要はありません。
むしろ、見世物としての「キャラクターの死」をある時は淡々と、ある時はドラマチックに見せる演出の冴えを、そして作画監督・湖川友謙氏が描いた日本アニメ史上に残る凄絶かつ絢爛豪華な戦闘絵巻を楽しんでもらえればいいと思います。
寡聞にしてこれ以上の戦闘シーンを僕はまだ見たことがありません。音楽も後に「ドラゴンクエスト」で国民的作曲家となるすぎやまこういちが手がけており、演出、作画、音楽が高いレベルで揃った時のアニメの恐ろしいまでの訴求力を堪能するのが正しい見方とも思います。

なおラストシーンの「救済」については当時から蛇足であると僕は思っていますが、アレがないとやってられんわと思うのは止むをえないとも思います。人はあまりに過酷な現実に対しては宗教を求めざるをえないものですから。
あ、この文章自体が蛇足でしたね。
ともあれ、クリエイターなら必見の「呪い」の一本「伝説巨神イデオン発動編」、本校の図書館にも置いてありますので、ぜひ見てください。

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